主体的に動くと、何でも楽しくなる
- sugi220513
- 2016年5月26日
- 読了時間: 3分

夕食の後片付けをしている時、たまに思う事があります。
子供の頃はなぜ、この後片付けを
あんなに面倒臭く感じていたんだろう?
共働きが普通という環境の中で育った私の小学生時代は
周りの友達も、夕食の後片付けを手伝うのは当たり前だと思っていました。
時代の影響なのか、土地柄なのかは分かりませんが、家事は妻がして、その手伝いは娘がするもの、でした。
毎日、母と姉と3人で食器を洗ったり、拭いたりしているだけなのに、何だかすごく大変な気分。
「あ~、今日も又この時間がきたか~」みたいな。
そこで、「当番制にしようよ!私は毎日ちょっとづつやるより、1日大変な思いをしてあとの2日は休む方がいい!」と提案しました。
「あ〜!そんな事考えずにみんなで協力してやればいいじゃん!」と口を挟む父。
「お父さんは何もしないんだから黙ってて!」と口だけは達者な私。
その提案はすぐに採用され、少し楽になりました。
…が、それでもやはり、面倒には変わりなかった夕飯の後片付け。
子供だったから慣れてなくて大変だった?
今はキッチンとテーブルが近いけど、昔はそうじゃなかったから?
日中の疲れ方が今より大きかった?
色々考えられるのですが、どれも当たっているようで、少し違う気がします。
行き着いた結果は、
「それは私の仕事ではない、お母さんのお手伝い」という受身の考えにあることに気づきました。
何故なら、当時私は母が忙しすぎる時、率先して夕飯の後片付けをたま~にしていたからです。
そんな時は面倒なんて思っていなかった、むしろ気づかないうちにやってビックリさせてやろう!なんてちょっと楽しかったくらい♡
もちろん、母は感謝したり、喜んだりしてくれました!
嬉しかったけど、別にそれを期待してやっていた訳でもありません。
この件に限らず、
やる事が同じでも受身でやるのと主体的にやるのでは疲れ方が違うのだなと感じます。
なぜ受身は楽しくないのか?
それは集中できないから。
「なんでこんな事しないといけないんだろう?」「早く終わらないかな~」
と無意識でも別の事を考えてしまいます。
必死になるほどの理由がない。
やっていることが、どんな良い事につながっているのか分からない。
そして、ぼんやりしていても許される平和な状況とも言えます。
でも、平和が壊された場合、
又は主体的にやっている場合、
そこにはやる理由があるから集中できる、
集中していると時間はあっという間に流れ、充実感や達成感、
集中による成果で自信も生まれます。
自分で選んで好きでやっているので、責任感も生まれグチも出てこない、
人のせいとか思うより、自分のせいと思えた方が改善もしやすく楽ですね。
自分が人を変えるなんて出来ないから。
そして集中が進むとフローとかゾーンとかいう域に達するそうです→☆
私にとって今、夕飯の後片付けが苦にならないのは、これは子供の時から「妻や母の仕事」で
今、私は妻や母だから。
当たり前と思えているから。(あくまで私の場合です)
そして、どうしたら少しでも楽になるかを考えて
自分にとって最良の方法で片付けているから楽なんだな~と思います。
もう、その最良の方法を考えること自体が趣味みたいなものです。^^
だから今、家事全般の効率化を考える片付けの仕事をしているのかも知れません❦

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